成田ーチューリッヒ(Zurich)ーベネチア(Venezia)


September 25, 2008

今回の帰国はフランクフルト便。 ブリュッセルからフランクフルトへ陸路で移動するルートは急ぐのなら高速のICE特急で結ばれているブリュッセル→アーヘン→ケルン→コブレンツルートか、比較的停車駅が多く遅めに走るICでブリュッセル→ナミュール→ルクセンブルグ→トリアー→コブレンツルートのどちらかだが、 今回はルクセンブルグ経由の南回りとした。 トーマス・クックの時刻表で調べるとあまり所要時間に違いが無く、また帰国便が29日便しか確定していない為、 のんびりできるのでこちらのルートとした。

 ルクセンブルグとの国境に近いドイツのトリアーの存在は、正直なところ、ドイツの観光ガイドブックで偶然見つけるまでは全く知りませんでした。 日本で得られるこの町の情報はかなり限られます。 現地で入手したガイドブックを読んで、その歴史に驚きました。 ドイツで最も古い都市と云われるだけのことはあります。
 
地図をクリックで拡大します。
赤いラインが今回のルートです。 アーヘン、ケルンも魅力ですが、アーヘンやそのすぐ北のマーストリヒトには'90年代初頭に仕事で何度も行っているので今回はトリアー経由としました。

ルクセンブルグ経由トリアーへ

ブリュッセルを出るときに込んでいた列車もNamurを過ぎるとぐっと空いてきました。 ここはLibramontというNamurから南に約100Km位の町。 プラットホームは日本の半分くらいの高さです
アルデンヌの丘陵地帯を列車は走り続けます

いつの間にか、家々はレンガ剥き出しではなく白い外壁になってきました
ルクセンブルグとの国境の町 Arlon
Arlonで家々の外壁がカラフルになってきました。 ルクセンブルグに入ると更にピンクや緋色の家も目立ちました。
ルクセンブルグ駅。 ここで簡単なお昼を食べトリアーへの電車に乗り換えました。 この駅にフランスのTGVが停まっていることを発見し、パリ東駅から2時間で来れることを後で知りました。
駅を出ると直ぐに車窓にルクセンブルグ旧市街が見えてきました
次回はここもゆっくり訪れてみたいです。 
ルクセンブルグの酪農地帯。

いよいよモーゼル川沿いに走りトリアーが近付いてきます
途中の小さな駅にて。 元々は駅舎だったのでしょうか? 建物のデザインがかなり変わってきました。

トリアー(Trier)の全体像

トリアー中央駅到着後タクシーで今夜の宿「ペンタホテル」へチェックイン。 荷物を置いてすぐにタクシーでモーゼル川西岸のMariensaule(マリエンソール?)碑へ昇り、トリア市内を俯瞰しました。 下の地図からも判る様に旧市街は1.5Km四方の中にあるので殆ど歩いて周れます。
モーゼル川の西側の山の上にあるMariensaule碑からトリアー市街を俯瞰。 奥に見えるグリーンはモーゼルワイン用のブドウ畑
カメラを右に振って、ローマ橋。 見辛いですが橋脚の下部が黒い岩で、これがローマ時代のAD144-152年に築かれた部分
ポルタニグラ上部から見た西の山に立つMariensaule碑。 右手前の古い建物は11世紀の旧ジメオン修道院

トリアーについて
 トリアーの歴史は古く紀元前18年にローマ帝国の初代皇帝の命で「トレヴェリ」の町が建設されたのが町の起源。 AD180年代には周囲 6.4Km に及ぶ城壁と5つの門が建設され、大浴場や円形劇場等ローマ時代の遺跡が今も市内に残されており世界遺産にしていされている。 4世紀には既に人口は人口6-8万人の大都市となっていたが、その後、ゲルマン民族やノルマン民族の侵攻などで破壊と建設が繰り返されてきた。 第二次大戦でも町は連合軍の激しい空爆を受け町の40%が破壊された。 戦後も資金不足から再興もはかどらず、1970年頃から「歴史的建造物の保護」の観点から再建が本格化して今日に至る

 主な歴史的建造物の写真を次に貼ります。 個々の詳しい説明ともう少し大きい写真は別途、後段でまとめます。
ローマから遥か離れたこの地にローマ皇帝が6人も居住していたという事実には驚かされます。
ポルタ・ニグラ(AD180年頃)
大聖堂(AD330年)
バジリカ(AD300年頃)
皇帝大浴場(AD200年代)
円形劇場(AD100年代)
ローマ橋(AD144-152年)
そして、こんな所にも。 民家の塀ですが分かりますか?

破壊と再建を繰り返す歴史の中で、使える石材は当然有効利用され素材の異なるレンガや石が積まれています。 何と一番上にローマ時代の黒い石が並べられています。 

トリアー市内には元々の城壁の残骸やこのような時代が混在した石塀が残っていました。

歴史的建造物の保護という考え方はごく最近のものなのでした。
トリアーの歴史のまとめ
前述のように、トリアーの町は2000年以上の歴史を持つが、建設、破壊の繰り返しは、とても複雑で外国からの侵攻を殆ど被ったことが無い日本人にとって想像を絶する。 そこで現地で仕入れたガイドブックやインターネット(トリアーに関する情報はかなり限られる)を基にこの町の歴史を年表形式で簡単にまとめてみた。 (インターネットでローマ帝国で検索するとWikipedia に良く纏められています。 何十年も前に高校の世界史で習った断片的な記憶をリフレッシュどころか新たに勉強し直しました) 

年代 出来事など 人口など特記事項
BC13世紀頃〜 ケルト民族のトレヴェリ族が居住
BC52-58年 シーザーがガリア(今のフランス)遠征時にこの町の軍事的重要性を認識
BC18年 ローマ人、ローマの初代皇帝アウグスツスの命によりモーゼル川の浅瀬に木製の橋をかけケルト民族を征服しトレヴェリの町を建設
AD144-152 石橋のローマ橋を建設
AD180年代 周囲 6.4Kmに及ぶ城壁とポルタニグラなど5つの城門を建設 円形劇場もこの時代の建設
AD275 ゲルマン民族のアレマン族により町は一旦破壊される
AD293 西ローマ帝国の3つの首都の1つとして再建(他の2都市はヨークとミラノ)
以降6人のローマ皇帝がトリアーに居住
人口は6〜8万人に増加
AD306-316 コンスタンチヌス帝がトリアに居住 アルプス以北で最大のキリスト教拠点に 大聖堂を宮殿敷地に建設
戴冠式をバジリカで
5世紀 ゲルマン民族の大移動に伴い数度の侵略を受け町が破壊されるが、フランク族はこの地に踏みとどまる。  AD395年にローマ帝国は東西に分裂。西ローマ帝国はAD476に消滅
AD780年頃 フランク王国のカール大帝がトリアー司教を大司教に昇格。町が復興 フランク王国は5〜9世紀にかけ西欧を支配したゲルマン系王国
AD882 ノルマン民族の侵攻、以後町は衰退
AD1248 町の城壁復元
トリアーはフランク王国から転じた神聖ローマ帝国(AD962-1806)の領土内
14世紀には人口は1万2千人
14世紀半ば トリアーの大司教が皇帝を選ぶ権利を持つ7人の選帝侯になる権利を確立
1559年 宗教改革に失敗。 市の経済的支柱であったウェーバー家が敗走 町の有力者と選帝侯の間の主導権争いは続く
1580年 帝国高裁の判決で選帝侯が勝利 経済疲弊、農作物の不作により市民のモラル低下
1635-1737年 三十年戦争(1618-48)やそれに続くフランスの戦争により包囲や破壊にさらされる 1697年には29ヶ所の修道院の僧侶達を除くと人口は僅か2700人以下に
1792年 ゲーテがフランス革命軍に対するヨーロッパ連合軍の戦場への旅の途中にトリアーに立寄る 1822年出版「フランスへの旅」でトリアーは教会・修道院がひしめく町と記述
1794年 フランス軍が占拠。ライン川以西はフランス領土に
1802年 大司教職が消滅
1804年 トリアーを訪問したナポレオンを皇帝自らが歓待
1815年 ナポレオン失脚後、プロイセンがトリアを貧しい支配地として受け継ぐ
1818年 カール・マルクスがこの町で生まれる
1871年 普仏(フランス・プロイセン)戦争でプロイセンが勝利しアルザス・ロレーヌ地方を併合してから、トリアーは再発展を開始 1900年には人口が5万人
第一次世界大戦 50回以上の空爆に会いフランス軍が駐留。 アルザスロレーヌを失う
第二次世界大戦 連合軍の空爆で町の40%が破壊される
トリアーの写真

1.ポルタ・ニグラ (黒い門)

AD180年頃に大きな切石を積上げて造られた城門で、石は砂岩を水車の力で青銅の鋸で切り出され、二つの石を水平に鉄の留め金でつなぎ表面には鉛を流し込んで平らにするという高度な方法がとられた。 門の外側には鉄の留め金が取られた跡が多くあり、これは後世の人々が鉄を取り出して再利用した為。 (余談になるが、ご本家のローマでも第二次大戦中に鉄が不足した時、遺跡から同じように鉄を取り去り、その結果遺跡の崩壊が加速したという話もある)

この黒い色は石の表面についた黒い錆のような汚れによるそうだ。 左手に入り口があり内部を最上階まで登ることができる。
 また、右側(東側)にも最上階があったが、1028年に東側の塔に隠遁僧として入り込み壁を塗り込めさせたギリシア人の修道僧ジメオンの死後、遺体を地下に埋葬後、聖人として崇め、この門を二層の教会に改装された時代があり、教会には塔は一つでよいとの理由から解体撤去されたため。 今の城門は1804-1819年にローマ門に復旧されたが東側の最上階を欠いたままとなっている
ポルタニグラからは市内を展望することが出ろ。 左前方が大聖堂。 真ん中の道がジメオン通りでその先にあるのが、町民の教会であったザンクト・ガンゴルフ教会。 その手前にハウプトマルクト(中央広場)があり、これを挟んで両教会は町の支配権をめぐる紛争を300年間続けた。 1507年に町民側がザンクト・ガンゴルフの塔を高くした為、大司教は塔の一つを1515年に高く建て増しした。 また、通りに面した建物にはドイツらしい木組みの家は見当たらない。 この町全体でも木組みの家は殆ど見なかった。
ポルタニグラの窓から見える大聖堂の塔

北側にある黄色いザンクト・パウリン(St.Paulin)教会

東側の建物とブドウ畑

内部には歴代の皇帝たち? のレリーフが彫られている

Augustinus AD380 とある

門はロの字になっておりその内側
ポルタニグラから中央広場までの道はジメオン通りというが、ここはローマ時代の幹線道路。 残念ながら不勉強の為見逃したがこの通り沿いには13世紀の「三聖王の家」やユダヤ人横丁がある


2.ハウプトマルクト(中央広場)

マルクトとは市場の意。 もともとの市場はモーゼル川岸にあったが、ノルマン人の侵攻後、時の大司教が今の位置に移した。
広場の中央にそれを記念して作られたマルクト・クロイツ(市場の十字架) 後ろに見えるのが大聖堂
ポルタニグラを背に広場に入るところ。 正面がザンクト・ガンゴルフ教会。 右の黒い鋭角の△屋根の建物は、シュタイペ(参事官の家)で町の公式なくじら尺が置かれていた。
ペテロの噴水。 1595年の建造。 大司教が町民との和解の印として、町と大聖堂の守護神である聖ペテロの像の付いた噴水を作らせたとのこと。
広場からポルタニグラを振り返ったカット。 左側にこの町では珍しい木組みの家が3軒。 手前のポールは市場の十字架

3. 大聖堂と聖母教会

大聖堂は古代ローマ時代にコンスタンチヌス帝の宮殿の敷地内に造られたが皇帝の最後のトリア滞在(AD328-329)の後、宮殿は取壊され、AD330年に同じ場所に古代キリスト教会に再建されたもの。 正面は残念ながら改装中でした
右側の塔がAD1515年に時の大司教によりカサ上げされたもの
ポルタニグラからの全体像



内部は当時のままの壁も残されている。 半端じゃない迫力でした
主祭壇
主祭壇をもう少し近くから。 階段を上がって見る為にはガイドツアーに入る必要があるようです
パイプオルガン
大聖堂南側の回廊に囲まれた中庭。 
回廊

AD1200年に破壊された大聖堂のローマ時代の南部分の跡に初期ゴシック様式の聖母教会
バジリカに向かう道から振り返った大聖堂

4. バシリカと選帝侯の城

通称バジリカ(Palastaula)。 コンスタンチヌス帝の即位殿。 とても大きな建物で比較的新しく見えた為、中には入らなかった。
幅 27.2m 奥行 67m 高さ 33m の一間だけの大ホール。 ローマ時代に作られたこの建物には床暖房も付いていたというから驚く。 オリジナルの建物は5世紀のフランク族の侵入時に破壊された。 
1614年に選帝侯であった大司教が宮殿とバジリカを建築。 左後ろがバジリカ
1761年に造られたロココ様式の外壁
今は地方行政所として使われているらしいが、この日は何かのパーティを催していた。

5. 皇帝大浴場(カイザーテルメン)

バジリカからローマ時代の城壁沿いに歩くと皇帝大浴場に辿り着く。
ボイラー跡。 この浴場に6基あったボイラーのうち4基の跡がここにある。
夏は野外劇場として今でも使われている
この廃墟は中世の城壁の一部として使われていた。 
近くで見ると石積みにも細やかなデザインがほどこされている

6. 円形劇場(アンフィーテアター)

AD 1世紀に造られた円形劇場の入り口。 本来はアーチ型の門であった。 
円形劇場。 観客席の石材は13世紀に建築材料として使われ、今は芝生に覆われている。
地下室への階段

剣奴達が控えさせられた地下室
内壁には色んな小部屋がある。 ライオンなどを入れたり、衛兵の詰所だったのだろうか?

7. ローマ橋

ローマ橋の橋脚はAD144-152年に、川砂利の下にある岩を深く掘って黒い石材(ポルタニグラと異なり石の色が黒の玄武岩)を埋め込み、ポルタニグラ同様鉄の留め金で固定するという工法で構築された。 上部のレンガ色のアーチ部分は18世紀のもの。 1945年3月2日に米軍がトリアーの町に奇襲攻撃をかけ、激しい空爆も行なったが、この橋はモーゼル川に架かる唯一の橋として確保したとのこと。 確かにドイツ軍は撤退時にはこの橋を落としたかったに違いない。

8. その他

年表に書いたように哲学者カール・マルクスは1818年にトリアの町に生まれ、その生家は今も街中にあり、書簡や写真が展示されている。 この時代は人口は僅か1万人に減少しておりトリアの経済は疲弊していた。
中国の人達が沢山訪れていた

普通の家なので、このレリーフが無ければ簡単に見落とします。

ここまで御覧頂いた皆様、お疲れ様でした。 ヨーロッパの街を訪れる時には、ローマ帝国の歴史やキリスト教との関わり、そして各時代の地理をある程度頭に入れて行かないと、せっかく訪問しても見逃す宝物が多いと、今更ながら実感しました。
 一方で、トリアーの町のように国境に在る故に二千年もの間、歴史に翻弄された都市は少ないのではないかとも感じました。